Candygrace

Life is beautiful whatever comes.

息が苦しくなる切なさ

想が起こす息苦しさ

息が苦しくなるという過呼吸のような、窒息に向かうような感覚を味わったことが、少なからずあるかと思います。津波のように押し寄せてくる虚しさ、やるせなさ、自分ではどうしようもありません。その津波が去っていくまで抗わず静かにしているのが虚しさの津波を乗り越える一番の得策であることはこれまでの経験から学びました。窒息しそうになるような息が苦しくなる切なさを、人の死から経験することが一番わかるかと思いますが、虐待されている子供や動物といったニュース、特に映像からは目をそむけたくなる、息苦しくなる状態に陥らないために、その虚しさと切なさとやるせなさで心がこれ以上侵食されないためにです。

今朝、掃除機をかけました。3日ぶりにのことで、毎日かける私としては珍しいことです。掃除機をかけて愛犬の毛が部屋から払拭されるのが嫌だったからです。帰宅しても朝起きても尻尾を振って頭を垂れて照れた様子で近づいてくるあの子はもういません。死んだのではないです。今はドッグトレーナーのいるサロンに仲間と居ます。私の側に居ないだけです。そう、事情から手放す決意をしました。友人の暖かい力強い助けもあって覚悟を決めました。漠然と思い描いたことはあったものの何の計画もない心の状態に突然やってきました。「覚悟を決めて。自分がどうしたいかよりも命あるものをどうするかという責任の問題、ぐちゃぐちゃ言ってるのはもういい。」そうピシャリと言われた時、即決できたわけではありませんでした。人間よりも違った角度で心に差し込むような痛みさえ覚えました。犬を飼ったことのない、犬との関係を築いたことのない人々にはわからないことかもしれません。その友人はブレない軸を持っている、しなやかな強さを秘めた優しさを持つ素敵な方で、犬を通して知り合ったのですが、誰よりも私の心を読んでくみ取ってくれているのが不思議なくらいです。

私の母は動物を’畜生’としか見ていないため、人間様なんだから、ペットショップに売りなさいなどと捨てなさいと同意のことを忽然と躊躇いなく配慮もなく言い放てる種類の人間もいます。責めているわけでは決してありません。自分の母親がそっち側の種類の人間であることを人生のこの段階で気づいたことに幾分ショックでもありましたが、それぞれの考え方があるのを認めざるを得ません。わかってもらえないというやるせなさは10代のころから幾度となく感じてきたことでしたから、新しい分野で気づいたに過ぎないと自分の中で咀嚼しました。母には母の人生があったのでしょうから。

解ってもらいたいともがき続けていたのですが、わかってもらえないならいいと背中を向ける過程を通して、今は解ってもらいたいという気持ちは遠のき、解ろうと思います。受け入れると同意、これが遥かに楽ですね。尊重するという域に達するまで時間がかかりました。

一番つらいときに側に居て無条件の愛を提供してくれた愛犬から多くを学びました。実は私がこんなにも彼に依存していたなんて、こんなにも支えられていたなんて感謝しつつ、戸惑いも隠せません。そう、友人は離脱という過程を私のためをも思って配慮してくれているのがわかります。切なさで息が苦しくなるのをどう逃していくか当面の課題です。

一人お留守番の長い、私の帰りも待つだけの私とふたりぼっちの生活よりも幸せになる。
より多くの人に愛され、暖かくケアされ、彼も家族に愛と癒しとを届けて
平和に豊かに祝された人生を送る。

これが私のアファメーション

息が苦しくなる切なさ、この種の切なさ、息苦しさは初めてかもしれません。Candy(猫)が15歳で私の腕の中で心音が止まった時の切なさとはまた種類が違います。

Alexの将来には望みがある、新しい家族に出会って幸せになる、そのためにできることって祈ることしかありません。人間的な私の一方的なエゴで振り回すようなことはしない、逢いに行かないということで私はこの切なさに打ち勝っていかなければ、アファメーションとともに。