Candygrace

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思いを届ける方法 - 映画「ノクターナル・アニマルズ」からの考察

久しぶりに出会えた力強い映画

好きな女優のひとりエイミー・アダムスが主演ということだけで、トレイラーもチェックせず、何の前情報もなく「ノクターナル・アニマルズ」("Noctoral Animals")を観ました。見終わった後しばらく体を動かすことができないほどぐっときました。ん、スゴイ映画に出会えたという感覚と、これは何?と自分なりこの結末をどう解釈するかエンドロール、スタッフロールを流し観ながら思いを巡らせました。いい映画に出会えた時だけこの時間が与えられます。こうした考察の機会が与えられる映画に久しく出会っていなかったので、思いを巡らすエクセサイズ、極上の時間を過ごせたように感じました。この映画に出会えてよかったと思います。

 

思いを届けたいのか復讐なのか…(ネタバレも少々)

ブルジョア育ちのスーザンは現在は同じく裕福な育ちでアートギャラリーを経営するハットンと結婚していて、スーザン自身のモダンアート作品を展示して大成功を収めている(実際は経営難に苦戦していましたね)、そこに元夫で小説家志望だったエドワードからスーザンにインスピレーションを受けて完成した小説だという手紙とともに「ノクターナル・アニマルズ」という原稿が贈られてくる、スーザンがこの小説を読み進めるのかたちで、映画内物語として同小説が主人公レイとその妻と娘に起こった悲劇的事件が展開されていくというのがざっと映画の構成です。

ハットンとの関係、自分の仕事にも満たされない今の生活に混沌としているスーザン、自分のアートをジャンクと言い放つところやハットンへの信頼が薄らいでいる、浮気も疑うという状況で、かつての夫だった気弱ながらも心優しかったエドワードからの小説を受け取ります。心優しく穏やかながらも気弱で身分不相応として親には反対されたエドワードとの結婚生活は、彼の気弱さをなじる形でやってられないとスーザンが一方的にエドワードの元を去ります。簡単に諦めるのではなく歩み寄る努力を双方すべきではないかと懸命に説得するエドワードを彼の子供を中絶する(ハットンに付き添われて)かたちで...要するにエドワードをとことん傷つけて解れたスーザン。

送られてきたエドワードの小説はかつての気弱で心優しいおだやかなエドワードを彷彿させるものではなく、むしろ全く真逆の暴力的で残酷で荒涼とした悲惨で哀しい結末の小説でした。その力強さに突き動かされる形でスーザンはエドワードと会う約束をします。約束の日時、約束したレストランにエドワードは姿を現すことなく待ちぼうけとなるスーザン、お客が次々訪れては帰っていく中で、誰も現れることなく時折飲み物を手にする、一人のテーブルのスーザンが映し出さて映画は終わっていきます。

エドワードは自分を捨てたスーザンにこうした形で復讐をしたかったのでしょうか、あるいは気弱で小説家として芽の出なかったかつての自分とは違い、こんなにも成長して力強い作品をかけるようになったんだと伝えたかったのでしょうか。あるいはそのどちらもあり得ます。

そもそもエドワードって生きているのでしょうか。 いろいろ考えました。

私なりの考察 それから 私の形の模索

思いを伝えるのに活字という形で残すのは昔から好きでした。今は動画もありビデオメッセージのほうがライブ感あり臨場感も数段高く好まれているかもしれませんが。伝えたかったけど伝えられなかった、本当は言葉とは裏腹にこうだったんだよ、心の底ではこうだよ、という思いを伝えるため、娘たちが小さいころ交換日記をしていました。日記といっても毎日ではなく、折に触れて書きたいときにお互いに書いていました。怒ったけどこういう気持ちだったんだよというふうに、小学生だった二人も私に書いてくれていましたね。離婚してシングルマザーになったものの娘たちには絶対不自由なおもいはさせない、両親不仲でいるよりも片親でも愛情たくさんのたおやかな家庭のほうがいい、そう固く信じて、とりあえず経済基盤を作るのに必死で働き勉強する中で、娘たちとの絆をしっかり保つために始めた交換日記でした。こんなに私を慕ってくれていたこともあったんだという私の大切な軌跡でもあります。ママのような生き方は絶対しない(PCにかじりついて翻訳してたり、離婚したりとかでしょうか)、ママなんて信じられない、親としてどーよ!と散々に言われて出ていっちゃった....いま、読み返すとどうにかなりそうになるのでもう少し年を重ねて、あるいはメンタル鍛えてからかな。

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伝えてない背景や伝えられなかった思い、解ってもらえなかった気持ち、解ってあげられなかった思い、こんないろいろをいつかは通じるだろうという甘んじた気持ちではなく、形にしたいとずっと思っています。この交換日記にもページがまだ残されているので、中高大学と進む中、彼女たちはこの存在すら忘れていると思いますが、いつか書こうと思っています。ママに神様が与えてくださった最高の贈り物だった二人に向けて。

 

と、ノクターナル・アニマルに戻りますと>>>私もエドワードのとった方法で思いを伝えたいと思ったわけです。彼がしたかったのが復讐であれば、その点は私とは違いますが、小説を書くことで思いを伝えたいという点は同じです。そう、小説を書きたいと長年思っています。きちんと行動に移すときだと思いつつも何もしてない。エドワードは20年後にスーザンにノクターナル・アニマルズを送ってきました。20年という歳月が彼には必要だった、20年要したというのも深みがあります、2-3年ではないという点。ここから何年かかってもいいから私も書きたい思いを強くさせられました。

 

エドワードの復讐 スーザンの再出発 決して悲劇ではない

映画を見た後で、トム・フォード監督のインタビューをいくつも見ました。そのうえでこのメーキングで彼が言っていること、スーザン役のエイミー・アダムスが言っていることが私の感じていたことをずばり言葉にしてくれて心が落ち着きました。


The Making of Nocturnal Animals

ノクターナル・アニマルズ」の原稿を送ってきたエドワードがスーザンに言いたかったのは「これが君が僕にした仕打ち、僕をズタズタにし上、僕の家族を殺した。それでも僕は20年かかって君のこの仕打ちに打ち勝った。この経験にインスピレーションを受けてこの素晴らしい小説を書き上げた。読みながら君は僕への思いが込み上げてくるだろうが、僕たちはもう終わった。」フォード監督は映画の細部に伏線とメッセージを織り込んでいて、もう一度じっくりその一つ一つを確かめるために映画を観たいと思います。 スーザンに関してフォード監督はこの小説を読んでエドワードとの記憶がフラッシュバックしつつ痛みを感じていたスーザンだが、今の自分を見つめる、変化をもたらす機会を与えらている、成長する、前に進む機会となっていると言っています。悲劇的に見えるエドワードの復讐を受けたスーザンの姿で映画は帰結します。彼女の目を大きく映すのが印象的、涙がでるということななく、ひたすら待っている姿に、スーザン自身もエドワードは現れないとわかっていても席を立たないという感じ。エイミーアダムスは生まれる時のような苦しみと不安の中にいるスーザンと捉え、悲劇的に見えるラストシーンですが、スーザンの新しい出発点だと言及しています。

そう。双方にとっての再出発点となっているのだと 私は信じます。特にスーザンにとっては今の内側が死んでいる生活から抜け出す機会となっていくと信じます。

さあ、もう一度じっくり観ます。

 

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